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健康百話

2012-12-10
長廻雑記帖(55)洗浄
長廻 紘
 昔の日本人は、日常のこまごまとしたことに非常に気を使った。食事の作法、冠婚葬祭の作法など挙げればきりがなく、かつそれらの意義というか意味を知っていた。今の人はどちらかというと食事は(おいしく)食べればよい、冠婚葬祭には行けばよい。こういった考え方に傾いている。作法に合わなくても命が縮むものではなかろう。それで本当によい(安心が得られる)のか。
 釈尊の呼吸術やマホメットの豚を食べるなとか断食についての教えなど、宗教家は健康に関してきわめて関心が高く、食事や呼吸法について多くの資料を残している。道元も例外ではなく口腔衛生や排泄に至るまで細々と指示している。衣食住に注意を払わないで何が宗教家か。道元が生きたのは源平戦乱の時代であり家庭的にも不幸であった彼は仏門に入った。そこでまず悩んだのは、お釈迦様の教えである「一切衆生 悉有仏性」、「山川草木 悉皆成仏」であるならば、何故苦しい修行をしなければならないのか、であった。その解決のために、国内はもとより中国・宋の名僧知識を尋ねた。そしてたどり着いた悟りは、悉有仏性や悉皆成仏は頭で考えたり本を読んで埒のあくことではなく、修行して頭の支配を脱して身体で、心で納得がいって初めて分かったことになる、であった。修行とは禅では坐禅をさすが、座布団の上に坐ることだけが坐禅ではなく、行住坐臥において心を込めて行うことすべてが坐禅・行であるということであった。悟りは吾が心と書く。

  道元が他の宗教家に比べて際立っているのは洗浄を重視する点にある。手を洗う、歯を磨くなどの小さな日常の行為の一つ一つは、全世界を洗浄していることなのだ。一つ一つの日常の行為、それがどんなに小さく些細であっても、それによって全世界を洗っているのだ。自力の限りを尽くした先に、自分を超えた何者かによって生かされる、悉皆成仏である。
 これは中世のキリスト教聖者アウグスティヌスの考えに近いものがある。彼を悩ませたのは「よき神が全世界を創造したのなら、なぜこの世に悪があるのか」であった。この二人の大宗教家の悩みは、世界というものが自分の外にありそれを眺めているという前提に立っていた。そうではなくて、突き詰めて行けば世界・この世の真ん中に自分がいてもがいている。そうと分かって彼らは解決に近づいた。道元は己のはからいを捨てて「ほとけの家に投げ入れよ」、パウロやアウグスティヌスは「自分に死んでキリストに生きる」(自我を捨てて、キリストを信じて任かせる)であった。
 現代人の不幸は、なにごとも理性的に論理的に考えてそれで物事が解決すると考えているところにある。それは悪い環境に生えている草木と同じで成仏できない。
 
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