HOME > フクシ情報広場

健康百話

2012-10-15
長廻雑記帖(53)中庸
長廻 紘
 ヨーロッパの歴史上の大事件に宗教改革がある。免罪符を売るなど堕落が目立ったカトリック教会の改革を求め、聖書の精神に返れと呼びかけたものである。その中心人物・ルターは若いころ、神の恵みを得るために完全な生き方を自己に課し、聖書の言葉の実践に努めた。修道士・ルターにとっての聖書は「これをなすべし」「これを為すべからず」と命じる掟(律法)であった。掟を徹底的に実践しようとすることは、肉体をもつ人間には物理的に不可能なことである。そのあげくルターは、進むも退くもままならない袋小路に落ちこんでしまった。小物なら切れたかもしれないが、ルターは大物だった。方向転換ができた。
 旧約聖書は掟の書であり、何をするべきかしてはならないかを命じるが助けてはくれない。キリスト教はイエス・キリストを信ずれば人はみな救われる、「わたしはこの世を裁くためではなく、救うためにきたのだ(『ヨハネ福音書』第12章)」と説く。律法は罪を告発し弾劾するが、神のことばである福音はその罪を許す。人は律法から福音へと導かれるということで、キリスト教はユダヤ教から独立した。もし律法の厳しさを欠き福音におもむけば、それは安価な恵みに過ぎない。

 両極端の中間に位置することを中庸という。この律法を通じて福音へという中庸に達したルターは、キレることなく、安らかな境地に立って宗教改革に進むことができた。こういう経験は偉大な宗教家に多かれ少なかれみられるところである。お釈迦さまは涅槃(煩悩消滅の境地)に入る前は激しい修行をおこなった。しかし、苦しいだけで得るところは少ないと分かり、神性の開発は心にありと難行を否定した。そうかといって、だらだらと日を送ることにも賛成せず、両者の中間をよしとした。
 中庸とは、考え方や行動が一方に偏らずに中正であること。過不足がなく極端に走らないことを言い、用の東西を問わず人間の重要な徳目とされた。最初から中庸を唱えても誰も信用はしない。難行苦行の経験を経ている人の言葉が説得力を発揮する。
 孔子様が偉いのは、中庸に徹することができたからである。『論語』が二千数百年も聖典とされてきているのは、その全体を貫く中庸の精神による。「天命之謂性」。天の命ずる、これを性という。「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中という(之謂中)。発してみな節にあたる、これを和という。中は天下の大本なり。和は天下の達道なり。中和を致し、天地位し、万物育す」。
 
バックナンバー
健康情報広場
健康百話
広報
▲このページの先頭へ