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健康百話

2012-06-13
長廻雑記帖(47)なんでもはいる器
長廻 紘
往年の名ラジオドラマにして、近年リメイクによって評判を落とした『君の名は』のコピーは、「忘却とは忘れ去ることなり」。忘却は辞書によると、すっかり忘れること。そうすると忘れるにも、すっかりからほんの少しまで、さまざまなレベルがあることになる。大中小、上中下。年をとるとだれでも記憶力が衰える。いわゆる物忘れ。前に言ったことを忘れ同じことを何度も繰り返して呆れられる。なにかを探そうとして動き出し、何をしようとしているか分からなくなる、などなど。すべてを覚えているのもどうかと思うが、忘れすぎも困ったものである。嫌なことを忘れてしまおうという忘年会があるように、忘れること自体は決して悪いことではない。程度が過ぎるのが悪い。ほどほどに忘れてゆき最後には皆忘れ、お迎えを待つのが上手な老い方。
忘れるには大中小のほかに、積極的と消極的という分類も可能であり、物忘れは後者。前者は努力の問題。孔子は弟子の顔回をほめて言った、「賢なるかな回や、怒りを移さず」。どんなに腹を立ててもそれをいつまでも抱えていない。立腹のあまり関係のない人に当たったりしない、移さない、忘れる。覚えていても仕様のないことは上手に忘れる。人から謗られたり中傷されたりすると、反射的に心の全部が憤りに占領される。すぐ反応しないで一呼吸置く。そうすると多くのことは詰まらないことに思えてくる。後悔も憤りと同じようにいつまでも心の中を占める。怒らない後悔しない人は語るに足らない。だが、怒りや後悔は必要だが、役割が終わったら心のチェンジ、忘れる。別のものを入れるために忘れる。

「土を捏ねて器(うつわ)を造る。その役に立つゆえんは器の無(中空)なるによる」。茶碗は中空だから、お茶でもご飯でも酒でも何でも容れることができる。心の中に前のことが濃厚に残っていたら新しいことを入れるのは難しい。心は水のようにつねに流れ、淀んでいてはならない。心はできるだけ空に。昔の記憶をいっぱい詰めた心は、死んで淀んでいる。常に流れかつ消滅しない。どこかに隠れていて、隠れた切りではなく、呼べばすぐ出てくるのが良い。
「忘れる」と似た言葉に過去のことに「こだわらない」がある。常に新しい気持ちで物事に対処してゆくこと。なにを怒り何を後悔するか。何を忘れ何を忘れないか。孔子は自分のことを「憤を発して食を忘れ、楽しんでもって憂を忘れ、老いの将に至らんとするを知らず」。年令の隔たりを超えて、あるいは地位や経済力などの差を忘れこだわりなく交われる精神の自由が欲しい。前者を忘年の交、後者を忘形の交という。
人は年をとるとだんだん忘れて行って、病気や死に対する不安が減ってゆく。老いに対する適応現象かもしれない。忘れることは神からの賜物。
 
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