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健康百話

2012-06-13
長廻雑記帖(45)遺伝子を探す
長廻 紘
医者の端くれであるから医学的老化論が書ければよいがそんな力はない。凡人の思いつきを書きつづっているだけである。「生物はなぜ老いるか」という問いには、さしあたり「生物であるから老いる」という答えが用意されている。これは間違いではないが一方的である。生物ではない石、いやもっといえば地球や宇宙も老いる。地球は40億年前にうまれ、いずれ消滅する。生物無生物を問わず老いるのであれば、老いるとはただ単に時間が経過することの別の表現であるにすぎない。なにをしてもしなくても老いる。生物が老いるのは外から見えやすいからそのように言われる。万物すべて老いる。
若と老は、薪と灰のようにまったく別のものである。人間とは望んでも考えても仕様のないことを望みかつ考えるものである。その最大のものが不老長寿。寿命が百年でも千年でも同じこと。同じ結果(死)なら長短は主観の問題にすぎず客観的な価値はない。老は善ではない、悪でもない、無記である。ただ老があるだけ。上手に老いるということがもしあるとすれば、それは眼を外から内に向けることである。外とは名誉、地位、富、快楽など。これらを目指す努力は若い時には必要である。そのような努力に関心がない人は聖人かナマケモノである。しかし、名誉などを追い続けるのは人生の無駄使いである。短い生をそれだけに費やすのは勿体ない。内とは自分の心、地位を求める自分を見つめる眼、内観する力。ものの見方を深めることである。じっとしていてもおそらく深まらない。他人に聞くことでもない。老化とはそういうことを考える力を養うことであろう。老と老化は違う。老は状態であるが老化は動きである。ちゃんと生きてこなかった怠け者が老や老化を疎ましいものと感じる。

人間は一生努力できる。努力の内容は年齢によって異なる。古来、氏か育ちかという大問題がある。現代風に言えば遺伝子か環境か。大体のところは遺伝子で決まっている(黒人は黒く生まれ、白人は白く生まれる)が、環境は無関係とはいかない。アメリカへ移されたアフリカ人の子孫は、世代を経るにつれだんだん白くなっている。なにごとも遺伝子の所為で個人的な努力は無駄だから、成行きにまかせるという考えがあるが、間違っている。全遺伝子が起きて働いているのではない。ねむっているのもあり、それを起こすのは自分しかいない。仏教に、人はもともと悟っている仏である、という考えがある(本覚思想)。悟る能力を持っているが修行しないと悟りに至らない。修行すなわち眠っている遺伝子を探す。みな同じことである。遺伝子を探している人(修行者)には、自分にあるはずだが今は眠っている遺伝子が何であるか分かる。「いまここ」に徹して努力すれば必ず見つかる。思い当たる。わたしは「書く遺伝子」に行き当たった。
 
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