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健康百話

2012-06-13
長廻雑記帖(44)ただ人間というものがあるだけ
長廻 紘
 65才以上の人口が2948万人(2010年)から、30年には3685万人へと増える予想されている。老人や老化という言葉がやたら目につく。そのびに『正法眼蔵』の「現成公案」巻が頭に浮かぶ。「たき木、はひ(灰)となる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり」。要するに若人が老人になるのではない。若は人の位、老も人の位。前後はあるがはっきり別のものである。薪(若人)は薪としての生き方(仕事、使い道)があり、灰(老人)は灰としてある。老人は老人で(老は老の法位に住している)、若人は若人である。今という時点、此処という場所がすべてである。
老いることを老化という。老化は身体のことだけを言うのか、心のことも含めて言うのか。人間の生理機能は加齢とともに低下する。適応力、記憶力なども減退する。それらのことをふつう老化という。そういう個々のことではなく、ここでは人間全体を問題としてみたい。薪が灰になるように、非老が老になる。各瞬間が、完結した唯一にしてすべてであるところのものである。昨日はどうだった、明日はどうだろうということは関係ない。「いまここ」があるだけ。過去はすでに過ぎ去っており、未来はいまだ到来していない。

あらゆる時間のなかで今の時以外の何ものをもわたしたちは所有していない(アウグスティヌス『告白』)。老も若も関係なく、ただ人間というものがあるだけである。老であることは、喜ぶべきことでも嘆くべきことでもない。ただ老があるだけ。老には老の生き方がある、努力がある。若い時は若い時の、老年には老年の努力があり、それにともなう充実感がある。日々努力して努力して努力しくたびれたら、死んでしまえばよい。
いつまでも生きて行こう行けると思っているから、若が良くて老は嫌ということになってしまう。老若にかかわらず、その時その場所で全力を尽くす。老いたから尽くさなくても良いという気になったら、それが老いたということだろう。元気な老人がふえたそうであるが、元気などは高齢者にはどうでもよいことである。跳んだり跳ねたりすることが老のあるべき姿ではない。そんなことは若いうちにやっておけばよい。「年もる夜老いは尊くみられたり」。たとえ不元気であっても不元気なりに「いまここ」に全力を尽くす。
「滴水滴氷、あに変じ、あに凝らんや」。寒い時に軒から垂れる水滴は凍って氷柱になる。異なるものに変化しているのではない。水がそのまま氷になっているだけだ。努力してきた人が老人になる。「天は人の上に若人をつくらず。人の下に老人をつくらず」。ただ今があるだけ。若人の今、老人の今。
 
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