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健康百話

2012-02-21
長廻雑記帖(38)ピンピンコロリ
長廻 紘
 死ぬのは仕方ないが、苦しまずに死にたい。そこから、元気なうちに苦しまずにころりと死ぬ―ピンピンコロリという発想が生じたと思う。高齢者が増え、身近に認知症のひとの悲惨なありさまを見る機会が増えてそうなってきたのだと思う。だが、そんな虫のいいことは起こりようがない。起こりようがないから望む。本気で望むのであれば、五体満足で元気なうちに自分で片付いてしまえばよい。「ピンコロ」の対極にあるのが「野垂れ死」。英語でいう、犬のように死ぬ(die a dog death)。野垂れ死にも犬死も、無意味に死ぬという語感があってよくないが、するべきことは皆なしたあげく、運命に抗しがたく死んでゆくのだから立派な死ではある。死ぬときにまで恰好をつけてもしようがない。
 死は厳粛なものとされている。その死をコロリなどといった軽薄な言葉で表現するのはあまりほめたことではない。心の中で思うのは構わないが、大きな声、大きな顔で言うのはどうかと思う。心弱き凡人としてのわれわれは、生に執着し死を恐れ逃げまどうのが素直なところであろう。
 わけもなく生まれてきたのは仕方ないことだが、ピンコロではまた訳もわからないうちに終わってしまうことになる。死ぬ時くらいは苦しんで、生まれてきた意味を、自分なりに分かって死んでゆくほうがよい。病気なってこそ健康の意味が分かり、健康に生きてゆく知恵がわく。健康は非健康の意味をよく理解している人に微笑む。そのように生も死の意味をよく理解している人に微笑む。死の苦しみを経てこそ、生の素晴らしさが分かる。

 物事を固定的に捉えるのは間違いのもとである。楽に死んだ方がよさそうにみえるが、それは強迫観念にすぎない。一回しかない生においては、その生を全うした方が良い。まっとうとは死ぬまでにあらゆる可能なことを経験することで、死の苦しみももちろんその中の重要なひとつ。
 人生を、一生をかけてつくるその人にとっての芸術品とすれば、苦しまずにあっさり死んでしまうのは、死と対決するという最後のクライマックスを欠いた、いわば未完の芸術に終ってしまう。老弱と病苦の中でこそ、もって生まれたもの人生で得た全てのものが出てくる。そこにその人の長所も短所もがあからさまになるという芸術の完成がある。身近な人、後進者に身をもって教える最後の機会であり、粗末にはできない。
 しかし、ピンピンコロリを願う人は、おそらく自分の事よりも家族に迷惑をかけたくないというところに主眼があるのだろう。また、なまじ死にきれないでうかうかしていると、医者や病院の目にとまり希望するわけでもない、人工呼吸器や胃瘻などといった生命維持装置を付けられて居たくもない病院に長くいる羽目になる。そこでは悲しみは長引く。
 
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