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健康百話

2012-02-07
長廻雑記帖(37)癌は癌にあらず
長廻 紘
 般若は般若にあらず、と似たような脈絡で、「山は山である。山は山でない。山はやはり山だ」が語られる。「山は山でない」とは、山というコトバが発せられた途端にその山は現実の山がもつ無限の可能性が隠されてしまい、辞書的な平凡な山に堕してしまう。あるものを山と言ったとき、そのものは目の前にみている 一回限りの独自性にもとづいた輝きを失って、画一化されたどこにでも転がっている無数の山の一つになってしまう(井筒俊彦)。東洋の哲学者たちは言語のもつこの種の好ましくない働き、物事をある特定の限局的な意味に固定する、に対して否定的である。「名可名 非常名(『老子』第1章)」。

 修行を積むことによって人間の底が深くなってくると、心が自在に働くようになり、「山不是山(山は山という言葉に固定された山ではない)」と、言葉のもつ固定化作用のベールを剥がし、言葉のイメージ作用に邪魔されることなく、山のもつ在るがままの姿をみることができる境地になってくる。「応無所住 而生其心『金剛般若経』」。日本語での「山」と、英語での「マウンテン」は、それぞれの国民のヤマに対する経験がちがうので微妙に異なって当然である。経験上の分かるは、対象的知識ではなく自らがそのものになることである。しかし、山は厳然として目の前にある。やはり「山はやはり山」という、皆と同列の世界に戻ってゆかなければ話は通じない。同じとはいっても、努力していろいろ経験して物事がよく分かるという段階を経ないと駄目である。スタート時を仮に0度とすれば、分かったというのが180度向こう側、だがやはり山は山であると360度動いて、元のありのままの境地にもどって始めて分かったといえる。心がどこにも止まらないで自由に働く者の目に映る山。「時人見一株花 如夢相似」。花は外見は同じであるが、見る人の心境経験によってそれぞれ異なる。凡人には表面しか見えない。夢と同じ。

 癌のことがよく理解されるようになってきて、癌という言葉を冷静に聞くことが出来るようになった。癌の原因が分かってきて、生活習慣を変える、たとえば喫煙を止めることによって予防できる。もう一つは、癌は死病として突如現れるのではなく、まず小さいものが生じて次第に大きくなるということである。以前は癌という診断を告げられた途端に、癌の持つ死病と言う語感にがんじがらめにされ、一切の思考が停止してしまった。そうではない。「癌不是癌」、癌は(死病を意味する)癌にあらず、である。癌の持つ多様な意味のうちの死病にだけ固定されることはなくなってきた。癌検診の重要性が広く理解されるようになった。何の症状も無いときに検診で癌を発見すると治せるは常識である。しかし、「癌はやはり癌」である。予防できる、治せるといってもタイミングを逸すると死がお待ちかねである。
 
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