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健康百話

2012-02-07
長廻雑記帖(36)一病息災2. 健康ハ健康ニ非ズ
長廻 紘
 車を運転していて、踏み切りで遮断機が降りると忌々しく感じるが、止まらないと列車とぶつかってしまう。ちょっと遅れるくらいのことは怪我や死のことを思えばなんのこともない。同じように、死に至らない程度の病気は一旦立ち止まって来し方を振り返り行く末を思うよい機会である。不運を嘆くばかりでなく、病気を機会に考え方を変える。なぜこんな病気になったのだろうか、人生の遮断機が下りた、と立ち止まる。病前より却って健康になる。
 病気にかぎらず、ときどき具合が悪くなることは、もっと大きな不具合に気づいたり用心するきっかけになる。身体は微妙なバランスの上に立っている。問題なく働いていると考える方がおかしい。われわれは、日は東から昇り西に傾く、身体は健康である、頭は冴えている、と能天気に日々を過ごしている。アヤウイカナ。将棋の大山名人は、「あなたほどの名人でも長考されることがありますが、どういう時ですか」と聞かれ「それは、あなた。上手く行きすぎているときですよ。そんな筈はないと、よく考えるのです」と答えている。山などでも危険な所では事故が少ない。歩き始めのなれない時に、つまずいたりして以後注意するから転落などにはつながらない。むしろ初めから快調に歩いたり、小さな事故を気に留めないとき、大きな事故に遭ってしまう。「目くるめき、枝危きほどは、己れが恐れ侍れば、申さず。あやまちは、安き所に成りて、必ず仕る事に候ふ(『徒然草』109段、高名の木登りの話)」。なにごとにも予兆がある。ただ気づかれないだけである。元気すぎるとみえた人が大病であっさり果敢なくなったりする。一病息災とは、持病が一つくらいある方が、健康に注意するので無病の人より却って健康でありうることを意味する。同書117段に、友とするに悪い者を七つ挙げ、虚言する人、欲深き人などと並べて「病なく、身強き人」を挙げている。これらの人たちは病人や弱い人のことが理解できないので傲慢である。友として良いわけがない。ちなみに、よき友には、物くるゝ友、智恵ある友とともに医師が挙げられている。医師は各種の弱者を知っているから友としてよいのであって、病気を治してくれるからではない。医療は仕事であり収入源であるから、友でなくても医師は病気を治す。

 聖書に「貧しきものは幸いかな」とある。われわれの心のなかに大小は別にして穴の如きものが開いていて、そこから隙間風が吹き込んでいる。たとえば病気という穴。穴は閉じなくてはならないが、やたらと閉じ急いではもったいない。その穴から見えるものを閉じる前によく見ることも必要である。健康な時、見えず分からなかったものが見え分かる。そこにイエスの貧しきものという言葉の真意がある。
 
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