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健康百話

2011-11-09
長廻雑記帖(29)人が食べるから牛は存在し得る
長廻 紘
 生物にとって環境を自分に合ったように調整することが難しくなってきている。それどころか絶滅種がどんどん増えている。人間以外の生物にとって、人間というものがいて勝手に振舞うのは堪らないことであろう。人間は、そしておそらくすべての生物も、自分の尺度に合わせて他を考える。他がどう考えるかはまったく考えてみようともしない。ユクスキュル以来の動物行動学の教えるように、動物にとって環境が大事なことは言うまでもない。自分たちにとって意味あるものとして選びだし、それをもとにつくりあげている環境のほうが、与えられた環境世界より重要である。すべての生物はそれ特有の環境構造を選択しているので、それと無関係に客観的世界を論じても無意味である。
しかしながら、牛や豚などは人間が食用にしているからこそ現に存在しえて居る。野生のままであったら牛や豚はそれほど数多くないであろう。存在させてもらっていることを人間に感謝しなければならない。人間に食べられなければ誰も殖やさないし養わないから、目の前にいる家畜は居るはずがないという意味である。事実であろうが変な理屈ではある。
地球上に生命が存在していることは、物理条件的に考えてきわめて稀、驚異的な条件の一致によるのだろう。現代の代表的な宇宙論者によると、宇宙は人類のような知性的観察者の棲息条件にあうように、おどろくほど「微調整」された結果である。どうして自分が「いまここに」居るか考え出すとキリがない。本気になればなるほど頭がおかしくなる。自分はなにものか。どこからきて何処へ行くかは、人類が考えることを始めてから未来永劫にわたる謎である。始めも終りもないと達観した方が無難である。あらゆる問答は、どんな平凡なものたとえば「昨夜なに食った」でも、結局「お前は一体なにものか」を問うことである。牛も「あいつに食べられるためにいるのだ」などと思ってはいまい。

 わたしが今此処に居ることの直接の答えは、何十億年前に生じた最初の生物、おそらく細菌、から途切れることなく子孫が残り、自分・私にまでいたったからである。どこかで途切れたら当然私はいないはずである。あの魚のあの卵が潰れていたら直系子孫に当たる私はその時点でありえない。そして、私が子孫を残さなければ将来大物を生み出すかもしれない私の系図は終わり。それ一つとっても、現にいる平凡な個々人であるが偉大の一語に尽きる。宇宙の中の奇蹟として存在する生物は、そこで何十億年伝えられてきた命の保有者である。周りに同類が多すぎるのでなんとも思わないが、大変なことである。威張ってよいと同時に大事に使わないと申し訳ない。逆に、個々の事象はなんら威張ることのできない、平凡極まりないことにすぎない事である。人間の日々や一生は他のあらゆる生物のそれとなんら変わりはない。
 
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