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健康百話

2011-08-29
長廻雑記帖(25)砂漠に陽は落ちて――新たな自己の発見
長廻 紘
 「湯豆腐や いのちのはての うすあかり(久保田万太郎)」。鍋からのぼるほの白い湯気の向こうに、来し方行く末をみすえる孤独な晩年の心境。提示句のように全く関連のない二つ、湯豆腐といのち、が出会うと化学変化が起こり、意外な効果・感動が生まれます。
 俳句は短いから「朝起きて 顔を洗って さあご飯」ではしまらない。自己完結していて、まるで算術「1+1=2」のよう。三句目がたとえば「梅の花」、すなわち「朝起きて 顔を洗えば 梅の花」だと、「山里は 万才おそし 梅の花」に似て非なるものではあるが、季語もあって俳句ではある。顔を洗っている前の窓から視線すなわち読者の思いが勝手に広がり、1+1=3とか5になる。この雑記帖のような非芸術品でも短い文は終始一貫していたのではつまらない。短いうちに、短いからこそ変化が必要。
 以前「砂漠に陽は落ちて」を書いた。砂と湯は正反対のものではあるが、「砂漠」と「湯豆腐」を無理やりつなげてみる。砂漠は生きているものがない虚無の世界、孤独な晩年の湯豆腐の向こうにみえる心象風景である。ではあるが、また苦闘の人生の末に見る汚れのない悟りの世界でもある。仮に悟ったと思ってもそこに安住していては暗転する、すなわち野狐禅。老人も砂漠で茫然とすることなく、砂ばかりの門をひらいて世間に出ていって垢に塗(まみれ)なければならない。学んだことを生かさなければならない。枯れ木に花を。

 ニーチェによると、駱駝は砂漠外では無能だが砂漠で獅子に変貌する。獅子は力の象徴である。砂漠という虚無・否定のなかで、生きのびてそこまで辿りついたけば、老人という駱駝は獅子となる。老人は否定すべきものの代表視されているが、砂漠は獅子にとっては自由の世界である。眼前にたちふさがる数多の岩を叩き砕いてきたのだから。そのように老年は人にとって自由の世界。
 随筆は誰にでも書け、わたしでさえこのように書いている。事実が正確に書いてあれば、読む人が読めば分かってくれる。わたしは単に好きだから書いている。他人がゴルフや釣りを好むのと同じ。下手なくせに好きなゴルファーがいたり釣れないのに海辺にいたりするように。書くことに上手下手は関係ないが正確でなければならない。数行先までは書き進めうる、と目途がついたとき書き始めるが、終わりを決めずにスタートする。終わりまで最初に見当がついているとあまり面白い文にはならないし、自分にとっては何らかの益、意外な世界の発見、はない。書きながら推敲してゆくと、初めには思いもよらなかった方向へ筆が進みアレと思ったりすることが一再ならずある。短くてそれだけではまとまった文章とはいえず困っている二つの文を無理に一つにしてしまい、うまく繋がると効果的であるが、つながらないと一人よがりの変なものになる。
 
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