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健康百話

2011-08-05
長廻雑記帖(24)沖の干潟
長廻 紘
 年のせいか最近親しい人たちとの別れが多い。人は死すものと分かっていても、いまさらながら人の一生とは一体ナンだろうと考えざるをえない。瞬間ではなく通してみると、人と蟻や蜂とどこが違うのかと淋しい気がする。人は学んで働いて楽しんで涙を流しながら年をとってゆくと強がっても、それは人の勝手でしょうと蟻は言うだろう。また学ぶとは一体なんですか、楽しむとはなんですか、なぜ涙を流すのですか等と不思議にも思うだろう。人間には他の動物とちがって過去の記憶があり未来の展望がある。某哲学者流にいうと、人間は「己を時間化する、己を時間として展開する(根源的時間)」働き、をなす。それらの巾が広いほど人間に生まれた恩恵に多く浴していることになる。動物にあるのはその瞬間だけ。だから強い、だけども弱い。
 人は自分が本当に死ぬものだと、いつ分かるのだろうか。人が死ぬものとは誰もが知っているが、死ぬのはいつも他人。気がつかないのは本人だけ。古人いわく「死期は序(ついで)を待たず。死は、前よりしも来らず、かねて後に迫れり。人皆死あることを知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。長く生きたあとでやっと分かることが沢山ある。自分のことも他人のことも。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し」。

 いつも、よいことは先に待っているはずだと思っている。まだまだこんなものではない、と。あにはからんや多くの場合そう思っているときがピーク、あるいはピークは既に去っている。花は半開、酒はほろ酔いというではないか。欲に目がくらむから、開きつくし穢くなった花を見たり、泥酔の苦しみにのたうつ破目をみる。自分にふさわしくない思いがけない幸運は、神が試していると構えた方がよい。順調なときの態度で人は判断される。うっかり真に受けると相応しくない人には破滅が待っている。死ぬときに死なないと、見せなくてもよい汚い姿を曝すことになる。
 運命の神は女神である。自信があるならがっちり抱きしめて物にしなければ人生は面白くない。破滅も人生。生まれたのだから楽しく。その楽しみは長く。半開の美をよく知り、ほろ酔いの中に最高の趣を感じるには修行が要る。そのために、幸運を見分ける眼力を養う。どうしたら養えるか。自分に執着しないに尽きる。眼力、無執着心を待つためにピークはあまり早く来ないほうが善い。
 やはり自分も死ぬのだと観念するのはいつか。老いを感じる平均寿命の前後か大病に罹ったときであろう。突如、広い世界に一人で放り出された気になり、あわてて宗教にすがったりする。頼りない人間に安定した基盤を与えてくれるのは宗教である。宗教を信じるとは有限な自己が絶対的・無限なものにいわば寄りかかることであろう。磐石の地盤に立っているような気になれる。人に宗教が要ると思わないが、宗教心を持てることは持てる人には宝であろう。
 
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