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健康百話

2011-08-05
長廻雑記帖(23)手と口――人間のしるし
長廻 紘
 人間が四足から直立歩行するようになって手が一気に自由になった。その分足が割りをくっていることは「知足」の項で述べた。なんでも手は為しうる、あるいは為せられている。手段という言葉がある。なにかをするのは手である。手のつく言葉は辞書に山ほどあり、多くは為すことを意味する。手はいくらあっても足りないので千手(千眼)観音はある。足は身体を支え歩くだけだから二本で十分、千足観音はない。多いほうがよければ、四足動物にかえればよい。足は多いとむしろ邪魔である。ムカデのように。手がどのようにして足と違う自由を得るようになったかは分からないが、樹に登る、樹上生活が大きいと思える。牛が指をはやし樹に登れるようになったら、やがて角は短くなり牛型の人間ができたにちがいない。前足で立って(いわゆる逆立ち)後ろ足で何事かを為す別種の人類というものがないのは、前足が目すなわち頭にはたまた口に近いからか、どちらであろうか。

 人間がその他の生物にとって悪だとすれば、手はさしずめ頭についで諸悪の根源ということになろう。ミロのヴィーナスは手がないからこそ精神性を得て崇高である。合掌は両手を合わせてその自由を無くし悪を為さないことを示すという。握手もそうであろう。このように手は善悪なんでも現し、人間そのものともいえる。手も顔と同じように、人の経歴を過不足なく現すという考えがある。手を見ればその人が分かる。節くれだった手、しなやかな手。啄木は「…じっと手をみる」とうたった。手のうちでも最もその人の来歴を示すと考えられる掌のスジ・手相を見て人を判断する手相見と、それを信じる人がいてもおかしくない。しかし、人相の方が素人にとっては分かりやすい。その人自身をよりよく現す。人相については、雑記帖の第7回目に記した。

 直立歩行のおかげで、手とともに口も自由になった。口も手と同じように悪さをする。手と口は手口のように並べて使われることが多い、同類。手から口へはその日暮らしで惨め、手八丁口八丁は小悪の代名詞。大悪は手も口も静かなものである。呼吸のところで書いたが、鼻息が荒い人はスリの餌食であるように、なにごとも騒ぐ者はくみし易い。だから病院へ怒鳴り込んでくる人は、上手に話すとあとでは感謝しながら帰ってゆく。よけい怒らせるのは病院側から口八丁が出てゆくとき。人をいきなり見ると用心されるから、まず手を見る、次いで口を見る。おもむろに人相すなわち目を中心にした人相を見る。そして黙ってただ聴いている。我慢できなくて喋りだすとややこしくなる。

 口相というものがあるだろうか。わたしの使っている辞書には口相という言葉はのっていないが口相はある。口のつく熟語は大体しゃべる食べるに関係している。下の口というものがあって、口はそれに似ているから参考にされる。おんなはみだりに大口を開けて笑ってはいけないとはその辺から来ている。
 
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