HOME > フクシ情報広場

健康百話

2011-08-05
長廻雑記帖(22)その受けざる処を観る
長廻 紘
 「俗世間を離れる道は、この社会のなかでなにくわぬ顔をしていくところにある。人とのつきあいを断って、社会から逃避しなければならないわけのものえはない『菜根譚』」。金はないよりあったほうがよい、仲間もあったほうがよい。なにごとも見方や考え方次第である。本来無一物を説く大乗仏教。その一派である唯識思想によると、われわれがあると信じて疑わない外界の事物は実は心が描き出した幻にすぎない。現実世界はいろいろなものが集まって、ある瞬間たまたま在るように見えているが、次の瞬間には変わっている。それなのに、われわれはそれが永久不変なものと思い込んでいる。自分を信じることができれば、世間と一緒に歩きながらそれに流されない。下半身に重心が置かれてあれば可能である。重力がないと、骨も筋肉もグニャグニャになる。
 日本は戦争に負けてから長いあいだ、アメリカの掌に転がされるという無重力状態にあったのでグニャグニャになってしまった。金はあるが腹が据わっていないので貧乏人の面つきをしている。そしていまや人口減少とともに金も日本から逃げかけている。昔の日本は貧乏が身についていたから貧乏にびくともしなかった。貧乏が顔に出ていなかった。『シン(口偏に申)吟語』にある、人物観相法を教える8つの法則「八観」。その一つは「窮すれば其の受けざる処を観る」。貧乏人は呉れるものならなんにでも手をだすようになるが、何を受けないかでその人を判断できる、という意味である。貧乏でも手をださない、出してはいけないものがある。貧乏は仕方がない時と場合がある。貧乏が顔や態度に出てしまう(貧すれば鈍する)のがすなわち貧乏人。いくらあっても、もっと欲しいというのも勿論ビンボウ人。

 金がなく、貧しくても堂々とした人は居る。それと貧乏人は違う。「えらいものだね、顔回は。乏しい食事と狭い路地暮らしだ。他の人ならその貧窮に耐えられないだろうが、顔回は自分の楽しみ(道を求めること)を改めようとしない。えらいものだ(『論語』雍也)」。「粗末な飯をたべて水を飲み、腕を曲げてそれを枕にする。楽しみはやはりそこにもあるものだ(同、述而)」。唯識説のいう、心の見る幻にもランクがある。身体に刻み込まれたのではなく、頭が考え出した幻は下で、朝日に消える露のようなもの。顔回は中や下の幻のようなものに惑わされることなく、孔子の教え(上の幻)に嬉々として従った。
 しかし、偉いかもしれないが凡人が偉人の真似すると悲惨な終末を迎え、やがて自暴自棄におちいることもまた疑いない。われわれは来るもの拒まず、来ぬもの求めず、でやってゆくのがよかろう。「素寒貧になると、人間は自分で自分を侮辱する気になりますからね」。『罪と罰』の酔っ払いマルメラードフの言葉である。
 
バックナンバー
健康情報広場
健康百話
広報
▲このページの先頭へ