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健康百話

2011-06-14
長廻雑記帖(19)一期一会 2.卑弥呼とキリスト 
長廻 紘
 「倭の国々に戦乱がおこって……国々は共同して一人の女子を王に立てた。そのものは卑弥呼と呼ばれ、鬼神崇拝の祭祀者として、ひとびとの心をつかんだ『三国志・魏書』」。有名な倭人伝である。この女王国の位置は、陸路○日水路○日といったあいまいな記述であり、古くから論争がある。
 歴史は古いことに関する学問である。それはそうであるが、歴史も「イマココワタシ」である。ある事は今と関係があれば、そしてその時だけ重要となる。古くても現在と係りのないことは歴史の問題とはならない。いまここ、と関係ない古いことは好事家に任せておけばよい。邪馬台国や卑弥呼は国の始まりに関係あることなので日本では関心が強い。『三国志』の作られた中国で卑弥呼は中国人の問題ではないので誰にも顧みられない。
 「あらゆる真の歴史は現代史である(クローチェ)」。「歴史とは過去と現在の対話である(カー)」。偉大な歴史家たちは、このように歴史を捉えている。歴史とは現在を生きる人たちの関心に答える、現在の視点に立ったものであるべきで、過去の人たちの欲求や関心などではない。東西の歴史の父といわれる、司馬遷とヘロドトス。彼らは当時知られていた全世界を旅行して「今、此処、私」と、いかに異なる時と所と人がいることかと驚嘆し、今との比較としての歴史という考え方に到達した。

 そういうわけであるから歴史は、現在との関係で不断に書き換えられる。新しい資料の発見もあろうが、同じ資料を使っていても解釈の違いも当然でてくる。私(個人に限らない。国とか民族をも意味する)に都合の良いように歴史は創ったり抹殺されたりする。邪馬台国が何処にあったかは日本人にとっては自分のこととして興味を引く。不思議なのは北九州説を採る学者の多くは同地に利害関係をもつ。大和説についても同じようである。素人がエコヒイキで勝手なことをいっているのとは訳が違う。専門の学者が地元に都合の良い説しか言わないのはおかしい。結論が先にあっての研究といわれても反論しがたかろう。このような例は数多ある。卑弥呼はまあお遊びとしても、遊びで済まないことも間々ある。卑近の例でも、アウシュビッツはなかったという説まである。南京虐殺はあったとかなかったとか、論文を書くときに友人の関係ない文献を引用したり、気に入らないといって重要なものを無視したり。
 歴史ではないが、イエスは処女から生まれた、死後に復活したなどは一体どういうことであろうか。常識ある日本人にはそんなことは信じられない。キリスト教徒も常識ある人が多いから事実とは思っていないだろう。「事実」問題の卑弥呼と「信じる・信仰」のイエス復活などは全く別次元のことだから、クリスチャンに悩みは少ないであろう。しかし、日本にクリスチャンが少ないのは、常識の捉え方と少なからず関係があると思う。
 
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