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健康百話

2011-06-14
長廻雑記帖(18)一期一会 1.ピロリ菌  
長廻 紘
 百丈という後の大禅匠が若いころ先生の馬祖と一緒にいたとき、鴨が飛び立った。先生「鴨はどうなった」。百丈「飛んでいってしまいました」。先生は百丈の鼻をつまみ上げ「ここにいるではないか」。ボーッとして鴨を見るのではない。鴨はおまえだ。また、鏡清雨滴声の話がある。戸外の雨の音を聞きながら鏡清が弟子に「あれはなんだ」と聞いた。弟子は当然の如く「雨のおとです」。先生「凡人は本末を転倒して、己を見失い物を追う」。すべてが汝自身のことである。鴨でも雨の音などではなく汝の音である。なにを見ても聞いても自分のこと。真にそのような境地に至ったら、いつでもどこでもなんにたいしても自在に対処できる。生きて付けくわえることは、もはやなにもない。「いま、ここ、わたし(すべてのことは現在、この場所における自分の問題である)」に忠実に生きていたら、何があっても、何を聞かれても、それは自分のことだと分かるはずである。だが、そうはいかないからこの世は面白い。
 胃癌の原因としてピロリ菌が重視されるようになった。筆者らが現役であった30年位前に、胃の組織を検査していた病理学者の少なからぬ者は、顕微鏡に変な細菌が見えるといっていた。しかし、胃液には強い塩酸があり細菌が住めるはずはない、というのが世の中の常識だった。誰も本気でその「変な細菌」を研究しなかった。そのうちにオーストラリアの若い研究者がピロリ菌という新しい細菌が胃にいることを証明した。先の鴨の件でいえば「これはなんだ」「雑菌が紛れ込んだものと思います」。そこでオーストラリア人が鼻をねじ上げて「ちゃんとしたもの(細菌)がいるではないか」となったようなしだいである。友人の某君が、周囲の嘲笑にめげず追求していたら、今頃ノーベル賞学者として飛ぶ鳥を落としていただろうと惜しまれる。

 「いま、ここ、わたし」は一期一会と意味する所は同じ。一期一会とは茶会の心得で、ここでこうやって「一緒にお茶を飲むのは一生にただこの一度かぎり」、そういった心もちでこの場を大事にしよう、という意味である。いま、ここ、鴨、雨の音であるわたし。この時この場面に持てる力の全てを出しきることができれば、仮に途中でも死んでかまわないことを暗に意味する。人の一生は、なにに価値を置くかで決まってくる。多くの偉大な人の伝記を見ると毎時毎日が一期一会からなっているようにみえる。凡人でも日記をつけるが、それを見ると毎時毎日が他人のために使われている。
 しかし、いつもいつもが一期一会では神経が参ってしまう。凡夫のみならずすべての人間に息抜き、安らぎが必要である。一期一会と安らぎの中間に生はある。釈迦は苦行と安楽をともに退けその中道を、孔子はかたよらず常にかわらない不偏不党の中庸を説いた。また中庸はアリストテレスの徳論の中心概念でもある。一期一会と安らぎの割合が人間を決める。
 
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