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健康百話

2011-06-14
長廻雑記帖(17)小人閑居
長廻 紘
 東北大震災以来、生活が一変した。ボサットしていた人までなんとなく忙しそうに動き回っている。生活や仕事に追われているとき、人はあまり悪いことをしない、できない。お金、地位や暇ができると、悠々とやってゆけばよいものを、悪事に走ってしまう者がでてくる。おそらく自信過剰あるいは他を軽んじる気が起こって、地がでてしまうのであろう。お里が知れるというやつである。孔子に「養いがたし、近づければ狎れてつけあがり遠ざければ怨む」と定義された小人である。
 暇の方はそれだけでは悪につながらない。暇はこの三つのうちで最も得やすいものであるのに、最も有効利用が難しい。暇だからといって私のように旅行をしたり本を読んだり文章を書いたりしているのは、悪ではなく不善という。世のため人の為にならない、そのかわり他に害は及ぼさない小事。読書は暇つぶし程度に心得ておけば問題ないが、四六時中書物が離せない中毒・ブッキズムは悪である。読書の悪は自分で考えなくなる事である。『顔氏家訓』に「閉門読書 師心自是」という文がある。門を閉じて書を読む。師心とは自分の心を師・拠り所とする、自分が正しいのだという独りよがりの慢心。『中庸』に「君子慎其独也」とある。独慎、一人で居るときに地がでる、人が見ていなくても緊張感を失うな。そうならないようにこの雑記帖で凡なる己を人目にさらしている。「愚かなことを書くな」と言ってくださる方を待っている。地震以来、電車の中の照明が減って車中読書が困難になった。車の中でくらい、静に坐ってせめて世の行く末のことを考える時間にしたいものである。

 卑弥呼が出てくるので有名な『三国志魏志』に「三余を惜しむ」という言葉がある。読書に利用すべき三つの余暇のことで、冬(年の余)、夜(日の余)および雨天(時の余)を言う。こんなにしてまで読書をするのは小人の最たるものである。おまけに頭がおかしくなる。せいぜい雨天、晴耕雨読の程度がかわいらしい。どんな本を読むか。残された時間が乏しく先の短い者には古典。何百年も生き延びているものを古典という。滅びないのは、長い年月にわたって色々な方面から叩いてもボロがでなかったもの。ぼろが出ればその時点で消えてゆく。古典といえば『論語』。分かり切ったことが書いてあると仮に思うことがあっても、去りがたい。孔子の考えは、固定的な一定の原理原則に則ることなく、その奥に偉大な孔子という人格が堂々と居るからである。「わたしに知が有ろうか。知は無いのだ。心の狭い男がやってきて自説に固執することがあると、彼のよって立つ有無、是非、善悪といった両端を叩いて、その根拠をその執を奪ってやるのだ」。生命の根本と共に歩んでいる、一以貫之なのだ。
 
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