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健康百話

2011-05-24
長廻雑記帖(15) 病気になっても病人になるな――1.子規
長廻 紘
 「学校で学ぶときは孜々として勤めるものあり。卒業すればすなわち倦(う)む。倦まない者も妻子をもつに及んでは則ち衰える。妻子を持って衰えざるものも病気になれば則ち挫ける(塩谷宕陰)」。
 多くの人の気力を最終的に奪うのが病気。生老病死は世のならい。誰もが老いて、老いなくても病に冒され死んでゆくが、死ぬ前に腑抜けになる。だが、金はなくとも貧乏人ではない人がいるように、病気であっても病人ではない挫けない腑抜けにならない人はいる。病人は病気に罹っている人のことであるが、病気であることと、病気をもっている人との関係は一様でない。メタボ検診などで病人が量産されているように、病気はなくても病人になる人までいる。病気は仕方がないが病人は仕方がある。こういう話になると必ず引用されるのが子規の「余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬることかと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居ることだった」。脳卒中に見舞われても必死にリハビリに努めている人は立派な病気をもっているが病人ではない。結核性カリエスで体中に穴が開いた子規であるが、最晩年に至るまで食欲旺盛にして短歌、俳句、随筆に健筆をふるった。

 病人とは病気にかかって自分のことだけしか頭の中になくなってしまった人。それらの人は病気によって諸事が妨げられる、あげく世を果敢なむ。気の流れが滞った人がここでいう病人である。病はあっても、周囲のことが目に入り精神がそれまでと同じように活発に働く人は病人ではない。気が流れ、病気に必要以上に邪魔されずに日常が進む人は病人ではない。どうして病人にならずにすむかといえば、欲がないから。我が強く欲の強い者はそれに引きずられて、思ったことの逆へと落ちてゆく。
 「三界虚妄 但是心作(眼にするものはみな、心がえがきだした夢幻にすぎない)」。すべては心作、病人をつくるのも心。心を磨き鍛えてくれば、やがて年を取って病気になる頃までには病人にならないですむ心もできてくる。年の功とは欲と我執を去ること。ものごとを考えるとき、私わたしワタシ山口が、と自分を中心に据えるくせを無くす。ジコチューこそが気の流れを妨げ、病人をつくる。普段からものごとの真相を観るしなやかな眼を養う努力を怠らない。真相とは、この世にそれしかない、絶対的に正しいことはないと知ること。ニュートン物理学もユークリッド幾何学も相対的なものに過ぎない。
 子規の最晩年の『病床六尺』には先ほど引用した21章の「悟り」と並んで、75章に「病気を楽しむといふことにならなければ生きていても何の面白味もない」。
 
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