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健康百話

2011-05-09
長廻雑記帖(13)気―1.中国と日本の違い
長廻 紘
 病は気からというが、日本と中国で「病気」という言葉の表面は同じに見えるが、気の意味はまったく違う。中国の病気は、体内を流れている「気」が滞ることによって起こると考えられている。気が流れていれば健康、気が滞れば病気。「人の生命は気が凝集したもので、気が集まれば生まれ、拡散すれば死す(『荘子』)」。天地の間、人の体内に充ち活力を与え、生命を支えるエネルギーが気と定義されている。日本の病気における気は「病は気から」にみられるように、呑気の気のようなもの、すなわち気分や気の持ちよう、心の状態(気分)をさす。
 気は宇宙をめぐり体中をめぐり精神に影響をおよぼす、極く微細で目に見えないものと古代中国人は考えていた。科学的証明は不可能、すなわち物質ではない。気の医学は『黄帝内経』に大成され、体内の気の運行を記したのが「霊枢」で、生理的な内容が「素問」。気は医学にかぎらず、哲学・思想史をつらぬく中国の基本的な概念であり、いままた気功として甦っている。

 中国人の思考法は、形ある事象の背後に目に見えない「気」があって宇宙万物を支配している、という易の思想とつながっている(湯浅泰雄『身体の宇宙性』)。空間的事物相互のあいだに張り巡らされた見えない気の作用がある、という前提で世界を見る。イメージ的な流れに沿って思考も流れる面があるのは、象形文字である漢字の影響もあるのかもしれない。気の流れに従って生きてゆくのが中国人の生き方の基本。『易』繋辞上伝に「一陰一陽を道という。仁者はこれを見て之を仁といい、知者はこれをみて之を知という。百姓は日に用いて知らず」とある。唐代の禅者は日常のルーチンを遅滞なく行ってゆくことがすなわち道をおこなうことであると重視した。道(理想的な生き方)とは取り立てて騒ぐほどのことではない。水を汲んだり薪を運ぶことに気を配り真剣に行うことである。
 中国人はものごとを固定的に捉えない。易の説くように万物は気に従って変転極まりない。しかし、その奥には確固不動のもの「一(いち)」がある。その一を見極めるのが中国人の処世術。たとえば変わる表情の奥をみる人相見・観相術に長けている。相という字は姿・形のほかに、物に現れた吉凶の意味もある。ちなみに相という字は、もとは木のうえに目が乗った形で、高い木のさらに上に目があり遠くまでよく見るという意味。気の働きが表面に現れたものが人相・面相。人は中国人に限らず、ある年齢に達すると知らず不知の内に観相術が身につく。中国人の場合は、単純に観るのではなく相(面つき)の吉凶を中心に観る。福相か凶相を見分けるのがポイント。福相に味方し凶相者を避ける。
 
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