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健康百話

2011-03-14
長廻雑記帖(8)砂漠に陽は落ちて――唯識(ⅱ)マナ識
長廻 紘
 年を取ると時の経つのが速い。光陰矢の如し。時間は誰にでも同じように経過するのに、ナゼ高齢者には速く感じられるのだろうか。ニュートン力学のいう時間はいつでもどこでも誰にでも同じ。アインシュタインは「時間とはそれぞれの系に特有なものである」といった。若者の時間はニュートン的にいつも同じに、老人の時間はアインシュタイン的にそこだけ速く過ぎてゆく。
時間の経過は主観的すなわち心が決めることだから当然、老人のためのアインシュタイン時間というものがあってもおかしくない。前に記したように、アラヤ識に過去のさまざまな行為が種子として貯蔵されているが、高齢になるにつれてアラヤ識に種子が貯まらなくなってきて時間の経過を短く感じさせるのだろう。

 なぜ同じはずのものが人によって違って感じられるかというと、人があると思っているものはその人にだけある。或るものが在る、ということは知覚されることであって、実際にものがあるわけではない、一切の現象は心によって分別されたものにすぎない、という考え方(唯識説)がある。
「三界は唯だ心のみである(華厳経)」。老人時間は老人の我執にもとづく妄想ということになる。
 我執(欲)があるからものがあるように見える。自己中心的で我執のもとになるこの心の働きを唯識派はマナ識という。
「心の奥がいつとなく汚れるのはこのマナ識があるためである(良遍)」。アラヤ識とともに深層心理をなす。人はアラヤ識によって自己としての(過去から今への)一体性・アイデンティティーを保ち、マナ識という激しい自己執着心によって認識の対象を変形する。同じ花をみても、きれい、それほどでもない、気持ち悪いと見るなどいろいろあるのはそのためである。もちろん唯識説は一つの説にすぎない。アラヤ識、マナ識などは深層心理だから人は気づかないが、そういうものに支配されていると知ることは重要である。すなわち、修行(心の汚れを取り去ること)とは識(心)の変革をもたらしうる、マナ識を抑えものの真の姿を見る(悟る)ことができるようになる。
できた人間は若いころから日々これ修行で、しらず知らずにできてくる。凡人でも修行によって老人時間を絶対時間に変えうる。
 年寄りにとってすべては経験済みのこと。だからなにもかにも同じに見える。朝起きてから夜眠るまで、来る日も来る日も同じことの繰り返し。砂漠の真ん中に立っているようなもので、どこまでいっても均一な砂ばかり。
 若い頃は砂でなく岩の間にいた。見えるのは目の前の岩だけで、その岩を乗り越えるとまた別の岩がある。後ろも前も岩ばかり。岩は年とともにだんだん小さく遂に砂になってしまう、美食しても砂を噛むようだ。これが人の一生。「砂漠に陽は落ちて 墓に入(い)る頃 ジイサンよ懐かしい アラビヤの唄歌おうよ(アラビアの唄)」。

註)人の意識は見たり聞いたりの眼耳鼻舌身識(五識)、ああだこうだと判断する意識(第六識)、第八識(アラヤ識。人間存在の根底をなす意識の流れで、経験(種子)を蓄積して個性を形成)のほかに、確固とした自己があるとの錯覚のもとマナ識(第七識)がある。
 
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