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健康百話

2011-02-28
長廻雑記帖(7)人相――唯識(ⅰ)アラヤ識
長廻 紘

人の顔つき、顔貌を人相という。生まれつき(土台)の上に人生の荒波が彫刻して人相ができてゆく。よく40歳になったら自分の顔に責任を持て、といわれる。その際、必ずといってよいほど引用されるのが、リンカーンが親友に採用を頼まれた某を断わったときの「人相が気に入らない」という言葉。人相は面相で代表され、辞書にもそうとしか書いてないが、人相という以上頭から足まで人の全身がとうぜん含まれる。全身相。シマラナイとか背筋がシャンとしているとかいないとか。背中には背相というものがあり、落ち目になったりすると、どんなに気張って肩肘張っても「あの人は背中が淋しげだ」などと言われてしまう。

 

40才がなにを根拠にいわれるかは良く分からないが、人生80年の現在だと40は折り返し点。リンカーンの頃、40才になれば世の辛酸を充分に舐めそれが顔にでてもおかしくない年齢であったろう。いまだと何才がそれに相当するだろうか。さて、孔子も40才を重視していて、「四十にして惑わず(不惑)」とか「年四十にして悪(にく)まるるは、それ終わらんのみ(40にもなって人から認められないで匙を投げられるようでは、お終い)」とか「四十五十にして聞ゆる(評判になる)こと無ければ、畏敬するに足らず」。

人相見というものがあり、人の顔貌をみてその人の将来を判断予見する。有名なのが三国志の英雄・曹操が若いころ人相見に「平時の能臣、乱世のキョウ雄」と言われて喜んだという例の件。人間には心(精神作用、意識)がある。眼や耳が外界に接触、すなわち見たり聞いたりしたものをそれが何か判定するはたらき。心があるから過去から現在まで統一されていると見做しうる。しかし眠っているときなど心は休んでいる。心の休憩前後をつなぐものがないと、人はバラバラ。


意識の流れをつないで個人の整合性を保障するものがなくてはならない、ある筈だ。それを仏教唯識派が発見して、アラヤ識と名づけた。過去の行為のすべてを記憶に止める、心的領域である。アラヤ識があるから人の一体性はたもたれる。サンスクリット語でアラヤは蔵、ヒマラヤは氷(ヒマ)の蔵。その蔵には何が貯蔵されるのか。人間はつねに行為をしている。その行為の気分(痕跡)がアラヤ識に種子として蔵われる。善(悪)を行うと、そのことが直ちに善(悪)としてアラヤ識に保存される。他人の眼のないところでなされた行為もアラヤ識は知っている。天網恢恢、疎にして漏らさず。過去のあらゆる体験行為の蔵であるアラヤ識が現時の認識対象に作用し、おのずと自己そのものとして滲み出る。人はアラヤ識を通して過去に知らぬ存ぜぬを決め込むわけにはいかない。そのようにしてアラヤ識が顔貌に現れるので人相見が成り立つ。

 
 
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