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健康百話

2011-02-27
長廻雑記帖(6)文は人なり
長廻 紘

文章を書くときにも「口はただ」と同じように筆が勝手に走ってしまいがちである。文は目の前に人がいない時に書くので「己の欲せざる所を他に施すなかれ」などと、いっそう心にも無いことを書いてしまう。用心しなければならない。軽薄な人は筆を持ったとたん、酒に飲まれるのと同じように主人公に断わりなく動く筆に逆に書かせられる。手紙を書いたら直ぐ出すな。証拠として残るので感情のまま書いたらまずいことがある。言葉と同じで、書いているうちにだんだん感情が激してきて本心ではないことを記してしまったりしてしまう。一晩おいて見直して納得いったら投函せよとはよく教えられた。最近はメールで、すぐ相手に届くので思わぬトラブルになったりするそうだ。文字や言葉によっては、後で触れる唯識が強調するように深い意味でものごとを伝えたり、理解・認識を期待することではできない。言葉や文章はあくまでも日常生活を円滑に進める方便に過ぎない。頼りすぎるのは禁物である。

 

文は人なり、とはよく言われる。立派な人が書いたものはそれが何であれ立派で誰が書いたか分かる。ダメな人についても同じこと。どんなに隠そうと努力しても一旦文になると、書いた当人の正体が隠しようもなく現れ出てくる。だから、よほど自分の立派さに自信が無ければ書いてはいけない、書いても人に見せるな、という意味であろう。自信があったらあったで、その自信が行間に現れ出でて顰蹙を買う。だが、心配しなくても良い。人は書かなくてもしゃべらなくても姿を現すだけで、見る人が見たら丸見えである。だから、話したいとき話し書きたいとき書けば良いのだ。自分を出し尽くして生きても、隠しつくして生きても死ぬときは一緒、ただ死ぬだけ。余談ながら、年を取って一番困るのは、人は年をとれば死ぬに決まっているのに、本気で死ぬのは嫌だと思っている人。あなたがいなくても世の中はちゃんと動いてゆきますから、ご心配なくといわれても、いやいやそんなことはないだろうと生に固執するのは、死計が立っていない人。

 

以前はどんなに言われても文章を書かなかった。小中学校でなにが嫌といって作文ほど嫌いなものはなかった。書かないのでよく立たされた。医者になって本を書いているうちになんだか書くことが面白くなった。群馬県へ行ってから、暇つぶしにとうとう医学と関係ない作文までするようになってしまった。書く以上は人に読んでもらわなければ詰まらないので稚拙、幼稚と言われながらも書き雑誌に載せてもらい続けた。あげくこんな所にまで書いている。

文は人也とは結局、人は人なり。何をしてもその人なのだから遠慮せずに為たい事をしなさい。ただ自分を磨いて見苦しくないように。ただ書きたいから書く、ということがないように。


 
 
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