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健康百話

2011-02-10
長廻雑記帖(5)口は重宝
長廻 紘

孔子の高弟・子貢が「人が自分にして欲しくないことは、わたしも人にしかけないようにしたい」と言った。孔子様は「お前にできることではない」とおっしゃった。キリストがそのように孔子様に言ったら、どのように判定されるか興味あるところである。それはさておき、子貢は本気で本心を言ったと思うが、聴く人が聞いたら「いい加減なことを言うな」となったのだろう。また、初めから実行する気がなくても、思っていなくてもわれわれは往々にして、「愛しています」などと、言ってしまう。世の中に、くちはただ(重宝、ロハ)と、いい加減なことを言う人もいる。愚かだという理由で人を罰することはできない、とは確かモンテーニュのどこかにあったような気がする。

これも孔子の「巧言令色、鮮(すくなし)仁」。口の上手い奴には気をつけろ。「先進第十一」には、妙な屁理屈を言って孔子を丸め込もうとした弟子に対して「これだから(理屈と膏薬はどこにでも付けてしまうような)あの口達者はきらいだ」と。『論語』は若い頃には敬して遠ざけるものと決めていた。まちがって開くことはあってもよくは理解できなかった。それが嬉しいことに最近少し分かるような気がする。年は取るものである。人生の妙は老齢にあり。論語を分からずにあの世へ行くのはもったいない。


言語は便利だから使っているだけで、真理真実を正しく伝えるものではない。釈迦は悟りを開いた時「一切存在が寂静に帰したすがた(真如)は、言葉では述べられない」といった。乞われていろいろ説いたがすべて相手に合わせた方便にすぎないという。お釈迦様でも方便に過ぎない言葉というものを、よくよく考えないで信じてしまう方が、言葉に踊らされる方が悪いのかもしれない。声は空気だから口から出たとたん拡散してしまう。とくに激しい言葉ほどそうである。「むやみにはげしい言葉を用いると、言葉が相手の心の内部へ入り込む前に爆発してしまう。言葉は相手の心の内部へ静かに入って、入ってからバクハツを遂げた方がよいのである(清水幾太郎『論文の書き方』)」。騙したり裏切る心算はなくても、結果的にそうなる。

 

だから、口に言わせている心はもっと勝手に動き回りコントロールできない。子貢の例とは逆に「あなたが好きです」と言おうと思っていても、いざ口を開けば「お前なんか嫌いだ」となっていたりする。身体を通して心に影響を及ぼす、身体をハンドルにして自転車ならぬ心を操作する、フラツカナイものにできる、と考えるのが坐禅などの修行。「身体から心に入る行は、間接的であるが他面着実であり心を澄み透らせ意志を強固にし、信念の人を作り上げる(宗教学者・岸本英夫)」。心にもないことをツイ言ってしまわないようにするのが修行。人がどういう心算で言ったかわからない言葉を妄信しないのも修行。

 
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