HOME > フクシ情報広場

健康百話

2018-05-14
健康百話(91)納得のいく死と医療
長廻 紘

 納得のゆく死に方をしたい、という人がいる。しかし、死は死であって、他の何事でもない。納得のいく死に方というものが仮に在るにしても、それは各個人に特有なものであろう。高い山に登りながら力尽きて死ぬ。孫や子に囲まれてにっこりしながら死ぬ、などいくらでも考えられるが万人に共通の普遍的な納得死はない。
納得いく死に方が望みならまず納得のいく生き方をしてきたかどうか反省することが先でしょう。健康に留意したか、食べ物に好き嫌いを言わなかったか、他人に優しくしたか、病気にはちゃんと対処したか、などなど。いずれにしても人は生きてきたようにしか死ねない。納得とは良いことでも悪いことでも、なるほどそうだと了解できることだから、納得できる死とはかくかくしかじか生きてきたのでそれに合ったように死ぬことを言うのでしょう。
「いっさいの苦しい戦いもなく、いかなる痛みも、近づきつつあるという気持ちも一切なく死が訪れたそれどころか実際に死がいつ来たのか誰も気づかなかった」人はインマーマンの「回想録」にあるゲーテのように生ききったなら、本人にも周囲にも納得のいく死が訪れるだろう。
閑話休題。納得のいく死とはおそらく自分では自分をもはやどうすることもできない状態、例えばがんの末期、に陥ったときに塵芥を片付けるような風な扱いをしてほしくないという、ごくささやかな願いであろう。むかしは8割以上の人たちが自分の家で家族に見守られながら死んだが、そういったような暖かな環境雰囲気の中で死にたいということに過ぎないのであろう。年を取ることは決して悪いことではない。虚しく年を重ねることが悪である。年を取って寿命が来て、周りの人に良いお年寄りだっただけあって死ぬ時も動揺がなかったね、といわれながら死んでゆくのが、強いて言えば客観的な納得のいく死というものであろう。形式はどうでもいい。あるいは死ぬにしても、納得のいく医療を受けて死にたい。
納得のいく医療は誰にとって納得がいくのかといえば、もちろん行為者(医療側)ではない。行為者は自分にとって納得のいくようにできる。そうではなく医療をほどこされる被行為者(患者側)は極端に言えば相手の為るがままであって、納得のいかないこともありうる。たとえば胃瘻。胃瘻は食べることのできなくなった者の胃に直接食事を入れ生命を維持する医療行為であるが、食べることが人間一般に、あるいは具体的な人間にとってどのような意義を有するかを真剣に考えないで、機械的に行われると様々な問題が起こりうる。最大の問題は始めたらやめられないというところにある。胃瘻を外すと続けた場合より死が早まる。もう一つは大きな声で言われないが、医療も他のあらゆる職業と同じように期するところ何であれ金の問題であり、胃瘻をつけ患者が生存すればそれだけ病院の収入につながる。野暮な話はこれ以上続けない方がよいのであろう。

 
バックナンバー
健康情報広場
健康百話
広報
▲このページの先頭へ