HOME > フクシ情報広場

健康百話

2017-06-02
健康百話(71)真理
長廻 紘

 この健康百話も60回を超えたので、ここのところ心ないし精神について書いています。健康に悪い影響を及ぼす不安。怖れをともなわない希望はないし、希望を伴わない怖れはない。不安や怖れのない希望は希望とはいえない。この世においてすること為すことすべてが怖れを伴った希望のもとに行われている。とくに信仰の結果は客観的に見れば不確実極まりないものである。「わたしはキリストとともに十字架につけられた。もはやわたしが生きているのではない。キリストが我がうちにあって私の中に生きておられる」というパウロの表白はそういった意味に読むべきものであろう。イスラム教徒のペルシャ詩人ルーミーは、信仰は怖れと希望以外の何ものでもないと言っている。「希望を伴わない怖れがあるならここに出してみなされ。怖れを伴わない希望があるならここにだしてみなされ。この二つはもともと離れることのできぬものと決まっている(『ルーミー語録』その16)。
人は真実、真理を求めるものである。不安に満ちた努力の中から真理が次第に姿を現してくる。仮のもの過ぎないかもしれないが、真理を与えられると心は落ち着く。しかし、なにかをどこまでも掘り下げていって、もしある正しくないところに達したら、その仮説は最初から間違っている。真理は自分の心の中にあるものだけれども、他所にあると思うからキョロキョロと落ち着かない、不安が募る。ものの真実性に疑いが兆すと不安が生じる。多くのものが与える真実は部分的にとどまる。部分をいくら集めても全体とはならない。哲学とか宗教とかは全体的な真理を与えようとするものである。この世のすべてを解決する、少なくともそういう力を内蔵している、と信じられている。部分に分けることのできない全体を相手にするから強い。
宗教は人間を不安から救済するものだといったが、しかし、人間が本当に救われるなどといったことがあるのだろうか。人間は「理性的動物」と定義されるように理性があり、それに頼るから不安がある。ああでもないこうでもないと小さな頭を捻る、理性に頼る限り人間に救いはない。分別の世界、合目的的世界とは、各自が自我を主張しあい闘争の絶えない世界である。仏教でもキリスト教でも頭でっかちを戒め愚かであることを勧めている。
ルネッサンス、啓蒙の時代を経て西洋ではキリスト教は廃れていった。マルクス主義もソ連の失敗のせいで疑いの目で見られている。どういうわけかは知らないがインド、中国そして日本でも仏教は衰退していった。宗教を信じることはできず、かといってそれに代わるものがない日本人は不安のただなかに翻弄されるままである。明治維新と太平洋戦争を経て日本には核になるもの、底のほうで支えるものがないことが明らかになって、なにが真であるかいざというとき決められない。それがために日本というところは国を挙げて不安に苛まれている。合理的に考え合理的に滅んでゆくのが人類という生物であろうか。人類がもし滅びないものであるなら、どこにも心をとどめず、その刹那刹那に対応するのが結局よいのだろう。「応無所住 而生其心」あるいは「立無念為宗 無相為体 無住為本(六祖慧能)」。

 
バックナンバー
健康情報広場
健康百話
広報
▲このページの先頭へ