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健康百話

2017-06-02
健康百話(70)復讐するは我にあり
長廻 紘

 ひとは不安からの救済を求める。太古においては神話を作って、いろいろのことに解釈を下し人々は心の安らぎを得た。物事の起源(なぜ男と女がいるか)やなぜあるか(あの山はなぜあるか)などを説明する神話は、現代の人間から見れば荒唐無稽な物語であるが、これによって人間と宇宙の関係が明らかになったと考え、人々は安心(不安からの救済)をえることができた。
神話の時代のあとにきたのが宗教である。それは神や仏を全面的に信頼することによって不安からの救済が得られると説くものである。生老病死はいずれ劣らず不安の因となるものであるが、中でも死は誰も経験したことがない不安の最たるものである。多くの宗教は根本的なところにおいて死の不安を和らげようとするものである。
キリスト教は最も端的に死の恐怖を和らげることを信者に保証する宗教である。「もしキリストを信じれば、身体は罪により死んだのであるが、霊魂は神のお情けで絶えない。もしイエスを墓の中から甦らせた神の御霊が汝の中に宿ったなら、汝の死ぬべき身体をも生かしたまわん(ロマ書)」。要するに癌で死ぬであろう汝も、キリスト教を信じれば十字架にかけられたイエス・キリストが墓の中から復活したように死なないで済む。復活とは物理的な現象ではなく心理的なものであることは言うまでもない。恒久な生命をもち、超えることのできない神と死すべき運命にあり悲惨な人間の間のギャップはあまりにも大きい。両者に橋を架け近づける仲介者が要る。仲介者はどのような条件を持ったものかというと、人間性と神性を共有しているものでなければならない。それは神が受肉して人となったイエス・キリストを置いて他にない。自ら至福にして至福を賦与する神が人間性をとるもの(イエス)となり、神の神聖にあずかる近道を人間に用意した。
宗教とはまずなによりも他者である神への絶対服従である。もし一切のことが自分でできるなら、神は要らない。自分だけでは救われないので神が要る。神があるかないかは理性で解決できる問題ではなく、神というものを信じることができるかどうかだけが重要である。「それ信仰は望むところを確信し、見えないものを真実とするなり(ルター)」。
人間は自力と他力のバランスの上に成り立っている。自分で何でもできる、為なければならないと考えて行動するのが自力。逆に、人間とは無力で愚かな上に罪深いものであり、何かにすがらなければ不安でたまらないといって、何かを自分の他に求めるのが他力。お釈迦様が自己を燈明として歩めとおっしゃっているように仏教は強いて言えば自力救済教、自分が仏、である。
それに対してキリスト教は、己を虚しくしてただひたすら神にすがれという、他が神である。あくまでも他力であり、善行や道徳は理性が先に立つ自力主義であってキリスト教という信仰の敵である、とまでルターは言った。知恵は人を愚かにする。自分で何でもできると思うから。他から何かを為されても反発して自分から行動してはならない。神は「復讐は私がする、任せなさい。あなたの仕事ではない」とおっしゃっている。

 
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