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健康百話

2017-06-02
健康百話(69)犬も成仏できるか
長廻 紘

 救済されることを悟りという。いかなることがあっても動揺しない、不安を感じないのを悟りというのだろうが、そんなものが本当にあるのかどうか誰にもわからない。われわれは普段、悟った人というものを見る機会がないので何とも言えないが、修行を積んだ坊さんの中には居るということになっているらしい、としか言えない。悟りは努力目標としてはあるかもしれないだろうが、現実にはあり得ないと考えた方が無難である。
あっけらかんとした状態を水とすれば不安は氷に譬えることができる。氷は水が凍って出来るように、水と氷は同じもの(H2O)である。とらえ方によって差が生じる。常温で水であるものも温度が下がれば氷になる。水温が下ると水は表面から薄氷が張ってくる。それはなんとなく寒い漠然とした不安状態で、温度がかなり下がって氷塊になると不安を通り越して恐怖となる。氷がなぜできるか分かれば不安を消すことができる。温度を上げればよい。なぜ咳が出るかが分かれば治せるので不安は去る、不安とはそのようなものである。咳の原因が分からない(肺癌かもしれないなど)から不安になる。
禅の公案を集めた『無門関』の巻頭第一則は、ある修行僧が趙州禅師に「犬に仏性があるか否か(犬も成仏できるか)」と聞いたら、禅師は「無(ない)」と答えた。仏性とは救済される潜在能のことで、お釈迦さまは一切衆生悉有仏性(すべての生きものは救済される)とおっしゃっている。それなのに大禅師が無といったばかりに仏性の有無が謎の塊(疑団)となって、昼となく夜となく修行者に答を迫ってくる。その状態は熱した鉄のかたまりを呑みこんだように吐き出そうにも出せない。しかし考え続けているうちに悪知悪覚が自然に亡くなって天地万物と己が一体という境地に達し、おのずと救済されるに至る。自分が自分がという悪知悪覚(うぬぼれ)が無くなると、ものごとを善悪とか有無といったように対立的に考える理の勝った二元論的思考が解消され一視同仁(内外打成一片)に至る。
犬に仏性があるか否かなどといったことは有無・二元論の立場であり、大局的にはどうでもよいことである、と分かる。ちなみに、趙州禅師は違うときに、犬に仏性は有ると答えておられる。犬に仏性があるか否かということは考えてわかることではない。犬と一緒に長い間暮らしてはじめてわかることである。分かろうという努力(一緒に暮らす)なしに頭だけで分かろうとするから不安になる。人間は理性的動物と自分勝手に定義して、頭でっかちになっているから駄目である、とお釈迦さまもイエス様もおっしゃっている。あたまで考えるとは善か悪かと二分法的に考えることである。善悪に分かれる前の状態で判断しなさいと言っておられる。頭でなく身体全体で考える。眼(を含めた全身)で聞いて初めてよく分かる(方始親の親とは我と万物は一体の境地)。不安であるのは、耳だけで音を聞き眼だけで物をみているからである。全身を眼に、耳にして対処すれば万事オーケーである。道元禅師もおっしゃっている、眼で見耳で聞こうとしても駄目である、と。それができるのを悟ったというのであろう。だから本当に悟った人などどこにもいない。

 
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