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健康百話

2017-06-02
健康百話(68)漠然とした不安
長廻 紘

 お釈迦さまを悩ませて以来、生老病死は苦の代表である。それらがなぜ苦であるかというと先がどうなるか分からないところにある。人々の思考と感情の基盤にドンと控えているのが不安感である。生きていること自体に伴う孤独や絶望が不安のよって来るところである。健康とは身体的、精神的、経済的、社会的あるいは霊的に安定していることで、これらの全てないし一部が揺らぐところから不安が生じます。不安とは人間が人間らしくある条件といっていいほどのもので、不安は身体的に健康な人にももちろんある。あるいは健康だからこそ不安はあるもので、不安のない人はある意味で生きていない、意義ある生を送っているとはいえないであろう。生物とはそもそも、生きているからこそ病気があり、不安があり、あげくの果てに死んでゆくものなのである。生きているからこそ不安がある。風邪をひいたとき熱や咳がでる、不安とはそのような症状、すなわち生が危険にさらされたとき無意識のうちに感じる防衛的な感情であり、必要なものですらある。不安というものがなかったら突っ走ってしまい悲しい目にあったりする。そういう必要なものであるが、必要以上に不安を感じるのが問題である。
心というものは捉えどころのないものの代表といわれるくらいで、分かったつもりになっても突き詰めてゆくと逃げ水のように分からなくなってしまうものです。不安には原因のはっきりしたものと判然としないものが在り、原因の判然としないいわゆる漠然とした不安がここにいう不安である。キルケゴールは自己の存在(実存)そのものにともなう本質的な矛盾に、ハイデガーは根源的無に、それぞれ根差す気分が不安であり、特定の対象への恐怖とは異なる。この世がどうなっているのか、どのように動いているのかわからないから不安になる。昔の中国の杞国に天が落ちてくるのではないかと不安いっぱいの人がいて、杞憂という言葉の語源になっている。
物質的と精神的とを問わず、不安感に対する方法は一つしかなく、自分の属する共同体にしっかり組み込まれているという思いである。何かにしっかり支えられているという自信があれば不安感はすくない。人は一人では生きることはでない。孤島で暮らしたロビンソン・クルーソーもフライデーという仲間を得ることによって人間として崩壊することはなかった。個人でも社会でも周囲に支えられているという確信がなければ不安なく生きてゆくことはできない。
極端に言えば、わたしたちは朝から晩まで不安に取り囲まれている。なぜ不安であるかわからないから不安である。達磨の弟子・慧可が師匠に不安でたまらない何とかしてくれと泣きついた。「お前が不安といっているものをここへもってきて見せなさい」と言われて、なにか悟るところがあったのか安心を得たというよく知られた逸話がある。何か得体のしれないものに対する感情なのに、持って来いと言われてふつうは出来るわけはない。慧可は偉かったからか、そう言われて不安とは実体のない妄想に過ぎない、つまらない感情にとらわれている自分を恥じて不安から脱することができた。不安から救済されることを悟りという。

 
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