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健康百話

2016-04-14
健康百話(42)病気はなんのためにあるか。
長廻 紘

自分が何者かが分かるために老い、病気や死はあると思います。お釈迦さまは四苦・生老病死を説かれました。生きることは辛い、年をとるのもつらい、病気もなかんずく死は辛い。嫌だいやだと思っているから辛いのです、人生とはそんなものだと思えば何でもない。
もちろん生は苦しいものと決まっています、その生の苦を通して人間は自分が何者か分からされて行く、またそうでなくてはいけないのでしょう。良寛は言いました「死ぬときには死んだ方がよい」、と。最近、たまたま私と同年ですが人生経験は遥かに豊富な立花隆さんは「死はこわくない」という本を出されました。自分だけが苦しいと思うから苦しいのです。皆、同じだと思えば耐えられます、だって皆死んでゆくのですから。現役時代に就いた仕事に専心し、定年後はその経験を基に思索を重ね、世界や自分のことが分かり穏やかに皆に感謝しながら死を迎えることができます。病気は、経験するたびにギアーを入れ直して軌道修正できます。そういうことも一病息災のうちでしょう。
年をとる、病気に悩む、死が眼の前だ。これらすべては自分のこと(自分は何者か?)を考えるきっかけです。自己とは何かを知ることは、自己の内に絶対的な他者(すなわち死)が存在することを認識することです。生老病死を経験しながら人間は成長し、死ぬ頃には何ものにも怯えない立派な人間になって死んで行けることになっています。病気たとえば癌になって生還した人(癌サバイバー)は一皮剝けている筈です。
人は世界をありのままに見ることはできません。不可視光線である赤外線や紫外線のことは言うまでもなく、超音波を聞くこともできません。また、自分が大事という自我が自分と物のあいだに入って、ありのままに見ることを妨げています。世界は自分が見ているものだけで出来ているのではない、見えないもの聞こえない音に満ちあふれている。それでもちゃんと生きているのだから見えない所で誰かが支えているに違いありません。一人で心配しているから不安になるのです。人はもっともっと大きなものに支えられているのです。宗教的なものに触れて心の安定が得られるのを霊的健康と言います。個人的には霊という日本語はすきではありませんが他によい言葉がないので使います。普通の生活を送っていたら霊とか宗教とかは心に浮かんではきません。病気なかんずく大病を患い苦しんでいるうちに逆に心の平安に達することが、人によっては可能でしょう。病気に負けないで医療者と共に病気に立ち向かってゆくことの意義、もっと大きく病気そのものの意義というものがあると思います。
自我はしぶといのでなくすことはできません。老病なかんずく癌を上手に経験することが自我を減らす数少ない道です。ただ嘆いているだけではもったいないことです。「井の中の蛙」から「井の外の人間」に飛躍するチャンスです。年をとったり大病をするとそれまでと違ったように世間が見えるといいます。視点が変わります。「朝焼け小焼け大漁だ。浜では祭りのようだけど、海の底ではイワシのお弔い(金子みすゞ)」。ここには視点の大変換があります。自分に都合のよい方向からだけ見ない訓練が病気を通して可能になると思います。

 
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