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健康百話

2016-01-22
健康百話(38)真なるものは全体である
長廻 紘

 生きるものは生きる。努力し生きかつ楽しんだものは上手に死ぬ。上手に死ぬことは願ってできることではなく、上手に生きた結果である。
ヨーロッパのルネサンス期に続く17-8世紀、思いきり装飾するなど極端さの目立った時代をバロック(歪んだ真珠)時代という。その時代の合い言葉は「今を楽しめ(カルペ・ディエム)」と「死を忘れるな(メメント・モリ)」の二つだったという。まさにアクセルとブレーキ。どちらが正でどちらが反かはわからないけれども。その時代のシェークスピアは「人生はうつろう影絵芝居(中略)意味などありはしない(『マクベス』)」。人生に客観的な意味は無いが主観的な意味はある。他人には影絵芝居とみえても自分には真。生とは今の瞬間のみ。どんな賢い人も観音様の手のひらを出ることができなかった孫悟空のようなものである。蜂や蟻はまめに動き回っているだけのように見えるが、人も似たようなものだ。自分で動いているようで、なにかに動かされている。なにに動かされているか分からないまま動き、最晩年になって、何に動かされていたか分かれば上乗であろう。
生きていく上での正解、客観的な「正しい」生き方というものはない。正しいと思った途端にそれに縛られてしまうからです。他から見ての上手下手があるだけである。人間は「おや?変だな」という反省という相対化によってものの見方を深めて行く、よい生き方に向ってゆきます。反省することによってわれわれは自分を対象化し(距離をおいて見る)、第二の反省によって対象の中に自己を見いだし再び自分に還ってゆくことができます。自分大事あるいは自分は正しいという正、それだけではよくないのではないか(反省)という反、対立する正と反を第二の反省という合によって高い立場に止揚するのがヘーゲルのいう正反合からなる弁証法。そのよい例が、排泄や呼気によって自己を否定しつつ、栄養摂取・吸気によって新しくなり、かつ正反合をへて同一性を保っているのが生物です。「真なるものは全体である。そして全体とは、自分を展開することによって自分を完成してゆく実在にほかならない」。
ブッダは「過去を追わざれ、未来を願わざれ。ただ今日まさに為すべきことを熱心になせ(『マッジマニカーヤ』)」。その臨終の言葉は「もろもろのものは過ぎ去る性質のものである。無常なものである。だから努力して修行を完成せよ」あるいは「自分自身を灯明とせよ」であったという。己をわきまえ明らめ、あとは自己を超える者に身を任せる。偉い人には後から後から付け加えられるから遺言も多くあり、人は玉石混交の遺言に振り回されてしまいます。ブッダも自分自身を灯明とせよと言っているのだから、自分で考えるしかないのでしょう。正があれば反がある、反が目の前になければ自分で考えだすしかない。反の無い正は危ういものです。何事においても、一生懸命主義とあなた任せ主義とがある。前者は分かり易いが、後者は誤解されやすい。あなた任せ主義は全身全霊を挙げて任せないと意味がない。自分で選択して良いと思ったことだけ任せたのでは駄目である。誰にでもできることではない。子供を供物として差し出せと神に言われ、それに従ったアブラハムはある民族の祖先となった。

 
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