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健康百話

2015-11-04
健康百話(36)健康は使うもの
長廻 紘

 人間は自分が死ぬことを知っている。だが、極力見ないように見えないようにしている。健康の最も対称的なところに在るのが死であるが、ヘーゲルによると死(の意識)はあらゆる能力の源になっている。
病気好きの日本人という文を前に書いた覚えがあります。それとどういう関係になるかはわからないが、よく知られた笑い話に「ちっとも病気しませんが、どこかおかしいのではないでしょうか」というのがある。病気をしないのが心配なら、ためしに病医院へ行ってみたらどうですか。たちまちいくつかの病気を見つけて薬まで処方してもらえます。もちろん請求書はきますけれども。
病気を知らないと豪語する人は危うい。単に気づかないだけか本当に健康の権化かのどちらかであるが、いずれも危うい。気づかないのが危ういのは言うまでもないが、健康に恵まれた人も結構危うい。健康だから長生きできるかもしれない、健康を大事にしなければという誘惑にかられ用心深く生きる、健康の囚人という守りの姿勢になるかもしれません。健康志向に足元を掬われないことが肝心です。ものごとは難しい。ふんぞり返らなければ面白くないし、返りすぎると仕返しを受ける。照顧脚下は大事だけれども、足元ばかり見ていても面白くない。人間は底に不易なものがないと空しいが、流行しないと淋しい。
健康は保持するより使うべき資産です。健康だからできること、健康でないとできないことはいくらでもあります。健康を何に使うか。運命の女神が微笑んでいるとき抱きしめましょう。よいと思われることはその上に胡坐をかいているとしっぺ返を受けます。健康はよいに決っているが、無条件に与えられたものと考えるとしっぺ返しを受ける。健康は使うための健康であって、それ自身が目的ではない。
われわれは当然のことであるが健康を非常に重視する。病気の場合と逆に健康ケンコーと思っていると、頭の中は健康であらねばならないという思いに占められてしまう。ここでも、なんのための健康か何のために生きているのかと、視点を変える必要がある。美味しいものが食べたいときは食べる。酒が飲みたいときは飲む。遊びたいときには遊ぶ。仕事の時は仕事。その上でまだ余裕があったら健康にも気を使う。飲食のときは飲食。健康のときは健康。両者は両立し難い。15世紀ドイツの思想家・クザーヌスは「学識ある無知」といった。円と直線は対立の極ともいえるが、円の直径が大きくなるにつれて、円の円周の曲率は小さくなり無限大の世界では直線に近づくことを例に「反対対立の合致」を唱えた。人間の認識能力においては対立するように見えるものであっても無限すなわち神の眼からは一致する。自分を信頼しそれに従うのが健康。
人は人として生まれるのではなく、人になる。人になる基本は必然性から抜け出て自然を支配することである。自然のままの人間は、いつ与えられたままの生から離脱できるかというと、現実に対して「否、違う」という術を手にするときである。健康とりわけ精神的健康はこの否イナをいうエネルギーとして使うためにある。理にかなった振舞、話すことなども、死の意識から生じる同じ運動の種々相であるという。

 
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