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健康百話

2015-10-07
健康百話(32)健康について 6.全体と部分
長廻 紘

 健康に限らず、善いと思われることはその上に胡坐をかいているとしっぺ返を受けることになります。ものごとは難しい。胡坐をかかなければ面白くないし、かきすぎると仕返しを受ける。照顧脚下(足元に用心なさい)は大事だけれども、用心ばかりでは面白くない。ときには転ぶかもしれない冒険も必要です。人間は底の底に不易なものがないと危ういが、流行しないと空しい。どうしたら善いであろうか。いくつかのアンテナを持っていると同時に、どこかに隙や隙間を作っておくのも悪くない。関西では、バカでないと馬鹿にされるそうだ。関東では、あいつはバカのフリをしているが正真正銘の馬鹿ですよといわれてしまう。15世紀ドイツの思想家・クザーヌスは「学識ある無知」と言った。
「真理とは全体である」。円と直線(平面と球面)は対立の極ともいえるが、円の直径が大きくなるにつれて、円周の曲率は小さくなり無限大の世界では直線に近づく。球も地球規模の大きさになると見渡す限り平面である。このことを例にクザーヌスは「反対対立の合致」を唱えた。健康と不健康もそのたぐいであろう。人間の認識能力においては対立するように見えるものであっても無限すなわち神の眼からは一致する、ヘーゲルの弁証法である。正があればそれに対する反が必ずあり、対立を越えたところに統一、新しい現実が得られる。この世には真(正)と思えるものは沢山あるが、またその反対も必ずある。この世には始まりがある、それに対して始まりはないという説もある。健康はあるという人、それに対してそんなものは無いという人。
なにかを正と思い込み奉っても仕様がない。正があれば必ずある対立物(反)を探してきて、弁証法的に検討してより高い境地につくようにすべきである。しかし、全体も全体だけでは片手落ちで、矢張り部分があるから全体もある。真理は全体であるが、その全体は部分を離れては本当の全体ではなく、あくまでも部分を媒介にして全体が捉えられるべきものです。
健康とは全身体的なもので、個々の臓器の健康というものは全個体の健康があってこそ意味をもってきます。全体と部分の関係は、まず全体があってはじめて部分があります。このことの喩えとしてよく挙げられるのがメロディーです。メロディーは音符の集まりであるが個々の音符には意味がなく全体・メロディーを構成する一員としてのみ意味があります。単なる部分の集合ではなく、部分の総和以上の体制化された構造をゲシュタルトといいます。部分があっても、バラバラにあればいくらあっても統一ある全体とはならず烏合の衆です。
「いかにかけ離れたもの、いかに異なったものをも結びつける自然的な見えざるきずなによって、たがいに支えあっているのであるから、全体を知らずに諸部分を知ることは不可能であるし、諸部分をくわしく知ることなしには、全体を知ることもやはり不可能である(パスカル『パンセ』72)」。ヘーゲル哲学の根本といえる。

 
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