HOME > フクシ情報広場

健康百話

2015-08-19
健康百話(30)健康について 4.霊的健康
長廻 紘

 いかなる状態にあっても心がのびのびとしている人は健康です。寝たきりであっても、健康であると本当に思うことができればその人は健康、霊的に健康です。いろいろな不安があっても、なんとなく日々生きていけるのは霊的に健康であるからです。どんなに丈夫でも心が鬱屈し楽しまないのは恐らく不健康でしょう。そうです、健康とは肉体よりもむしろ精神のことかも知れません。客観的なものは健康であり、主観的なものは不健康、病的である。
健康にも種類があり、肉体的、精神的、社会的そして。社会的とは周囲に認められ受け入れられていること。霊的健康とはすべての底にあって、健康全体を底支えしているものです。心のなかに穴が開くことがあり、そこから隙間風が吹き込んでくる。たとえば病気という穴、失意という穴。穴は閉じなくてはならないが、閉じ急いではもったいない。その穴から見えるものを閉じる前によく見る。健康なとき、見えなかったものが見えてくる。
人間が他の動物ともっとも違うのは、将来を予測できる点です。予測は良い面も悪い面もありますが致命的なのは自分がいずれ死ななければならないと分かる事です。必ずしも悪くはなく、いずれ死ぬと分かることは緊張感を高めるのでとても良いことだという人も沢山いるが、ここではそんなことは脇に置いて先へ進んで行きます。人間には自己意識というものがあって、そのために種々の不安に取り囲まれ苛まれています。病気をきっかけに宗教の戸を叩く者があります、死が間近に見えるからでしょう。私の家内は進行癌をきっかけにクリスチャンになりました。宗教が何であるかも、健康とはまた違った意味でよくは分かりません。
だんだん人間に知恵がついてきて「宗教なんて」ということになってきていますが、人間は自分では救われないものですから、いよいよ困るとなにか自分以外のものにすがる、すがらざるを得ないものです。知恵がつくのに応じて責任とリスクがついてくるというパラドックスが生じます。現代において宗教は表面的には見えませんが、深い所では生きていて思わぬ時に顔を出します。われわれは一人では生きて行くことは到底できません。なにか支えてくれるものが必要で、それが広い意味の宗教と思います。忙しく働きまわっていて気づかなくても苦境におちいったとき、頼れるものが何にもないことを突如わからされます。そのとき助けてくださいと言っても嫌な顔一つせず相手をしてくれるのが宗教だと思います。キリスト教では、神がイエスという人間に入り込んで(受肉)、人間の罪を彼に背負わせ、代わりに死なせることによって救いの道を開いたと説いています。イエスすなわち全人間が死後復活することにおいて神はわれわれに希望を持たせている。こんなことを考え付いたパウロは宗教的天才です。
「健康である」とは、自分自身の持てる能力を伸ばせることです。健康でないとできないことは多いので健康は尊いものです。しかし、生きることの目的は健康であることではありません。健康は精神が自由に羽ばたくための必要条件です。「身体が束縛されず爽快で健康であり、欲するままに飲食していてもそれが魂になんの助けになるであろう。逆に病気で疲れ果てていても、それが魂になんであろうか(ルター『キリスト者の自由』)」。

 
バックナンバー
健康情報広場
健康百話
広報
▲このページの先頭へ