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健康百話

2015-07-02
健康百話(27)健康について 1
長廻 紘

 今日ほど普通の日本人が健康ということに関心を持った時代はなかったと言われています。高度成長期を経てやっと日本人がその日暮らしから解放されて健康にまで眼を向けることができるようになったからでしょう。明日の米に気を配らなければいけない生活において健康はどうでもよくは決してないが日常的に意識に上るものではない、いわばきれいごとであったのです。
「健康百話」と題しながらこれまで健康について直接触れることはありませんでした。健康とは自明のことのようでありながら、考えるとよく分からなくなるもののひとつです。「時間とは、それが何であるかと尋ねられなければ、私はそれを知っている。だが、そう尋ねられるとそれがなんであるわからなくなってしまう(アウグスティヌス『告白』)」。それと同じように、健康は何かと尋ねられない時には分かったつもりになれるが、真剣に考えると分からなくなるものです。分かったつもりでいた健康もいざ本気で定義しようとすると蜃気楼のように逃げて行ってしまいます。美や善と同じように、望ましいものであるけれども、真剣に考えはじめると虹のように逃げてしまいます。また、究極の美とか善というものは理念としてはありえますが、究極の健康というものはありえません。なぜなら、それは不死のことだからです。健康は上限も下限もない即ち厳密に定義しないで使うしかない言葉です。健康は定義することができないので、いったん健康が気になりだすとどこに健康の真があるかわからなくなり、挙句ノイローゼになってしまう人が出てきてもちっともおかしくありません。健康というものは平和や理想と同じように多くの種類があります。つきつめると分からなくなってしまいます。なんとなく健康で可。
健康とはごく常識的なことで、特別のことではありません。逆立ちして歩けるなどといった常人ばなれしたことでは全然ありません。気分良く目覚めて、よい一日だったなと思いつつ寝につければ最高の健康でしょう。何が自分のためになり、何が害になるかを見定めることが健康を保つうえで最良の方法。健康にも個性があります。まず自分の状態をよく知ることが健康への近道です。他人に健康になってもらうわけにはいきません。死ぬときは自分で死ぬ、他人に代って死んでもらうわけにはゆきません。自分の個性を知ることはできなくもないが、その個性を生かすのは難しいことです。現状から出発していかにしてその現状を維持することが健康道といいうるものでしょう。不健康に通ずることを避けるのが健康道といえば言えなくもないでしょう。
健康とは不健康でないとしか言いようがないけれども、不健康も健康に対する不健康だから堂々巡りになってしまいます。目に見える物は存在するが、健康のように目に見えないものは時間、神などと同じように定義不能なのです。「肉体的、精神的、社会的に完全に良好(正常)な状態」というWHOの健康定義にしても、本当は何も言っていないのに等しいのです。良好とか正常がどういうものかを具体的に示すことができないので健康はあいまいな言葉に止まってしまいます。

 
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