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健康百話

2014-10-22
健康百話(7)病気願望
長廻 紘

 世の中には病人と健康・非病人しかいない。誰もが非病人の方に居たく思う。だが、健康な人も、なんとなく自分も病気になってみたいなどと贅沢なことを思うことがある。健康だと絶えず勉強や仕事に追いまくられている、心が休まる時がないように感じる。普段はなにかを一生懸命やっているつもりでいても達成感はないのだが、病気で寝ているから達成感がないのは当然で、平気である。子供の頃の病気は少なからぬ人が良い時代だった、楽園だったとの思いで思い出す。病気になると周りから大事にされる、美味しいものを食べさせてもらえる、もちろん勉強はしなくてよい。良いことずくめであった。
病気で寝ていると最初のうちは焦りのようなものがあり妄想に悩まされたりもするが、だんだん慣れてくると一生このまま寝ていたい、苦しくさえなければ死んでしまっても悔いはない、という気になるから不思議である。荻原朔太郎が随筆(『病床生活からの一発見』)に書いているように、「お前は病気だ。肉体の非常危機に際している。なによりも治療が第一。他は考える必要はない」というモラトリアム(注)である。そのあげくに、寝たきりの子規が、たとえば「藤の花が畳に届かない」などといった身の回りの平凡きわまりない事項をこれまた平凡に詠んだ短歌、俳句などがいかに優れたもの、人に感動を与えるかが朔太郎には分かるようになったという。ついでに、日本の自然主義ないし私小説は下らないことを下らなく書いたものだが、その存在意義もなくはないと分かったという。なにしろ病人になると、寝ていて天井に止まっている蠅を1時間も2時間も見ていてもあきないというのだから。退屈もその境地に安住すれば快楽である。  (注)モラトリアム:執行猶予。
生きるとは、外(世間)へ打って出ることである。出て行っても倒されては意味がない、出ても倒されないのが善く生きることである。ところが病気になると、あなたは寝ていても誰も非難しませんよ、安んじて寝ていなさいという有難い環境に置かれる。誰も病人を倒すような不人情なことはしない。それどころか病人にはなんでも他人がやってくれる。人は誰も闘いたくはない。闘わないと落伍するから闘うのである。それが猶予される病気ほどありがたいものは、ない。癌の末期などでは敵までが優しい顔をして見舞いに来てくれる。ひねくれた人は「ざまぁ見ろ」と顔を見に来ているに過ぎないと妄想するかもしれないが、そんな考えだから病気になる。善意はそのように善意のままに受け取らないとならない。
世の中の病人には早く治りたい者、このまま寝ていたい者と死んでしまいたい者とがある。治って健康になれば、働いてそれなりの結果を出さなければ具合が悪い。自分で死ぬのは嫌だが他人すなわち病気が死なせてくれるのなら、それも悪くはない。人によっては望むところかもしれない、少なからずいる。
医者は、この病人は治りたがっているかそうでないか分からなければいけない。無意識であれ、治りたくない人は訳もなく治療が奏功的ではないことがある。もちろん治りたい、治りたくない両方とも治さなくてはならない。治りたくない病人も治りたい気持ちにするのも医者の大きな仕事である。

 
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