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健康百話

2013-04-25
長廻雑記帖(58)境界の消失
長廻 紘
 人間が人間である幸せを感じうるのは、自らの世界を自分で創造していると思えるときである。自らの意思に従ってできたものは、どんなに小さくても自己のものである。しかし、自分一人では世界は成り立たない。他があって、それとの関係においてのみ自分がある。「不二而二」。男は女がいて男。男だけでは男ではない。人のために何かするとしても、それがなんであれ相手がある。「誰がために(弔いの)鐘はなる。それはお前の為だ」。純粋に他のためということは、ありえない。他人の為に鳴っていると聞こえているかもしれない弔鐘であるが、実は聞いているお前のために鳴っている。
 最近いろいろな方面で、物や事の境界が以前ほどクッキリしたものではなくなっている。ものによっては不鮮明というより消失してしまっている。二で成り立っている世界が限りなく一に収束している。境界(物事のさかい目)には二種類、人為の入る余地のない絶対的なものと、多分に人為的な相対的なものとがある。前者は生と死、男と女など科学的にも客観的にもはっきり分かれている。後者は正常と異常、大人と子供、プロとアマなどのように時代や地域によって異なる、変わりうる。これまで自明とされた相対的境界が判然としなくなっている。よい例がプロフェッショナルとアマチュア。プロとは、アマがどんなにあがいても敵わないような差をみせつけるものだが、最近のプロと称するものは必ずしもそうではない。あっさりアマに負けてしまう。子供と大人の境界もないというか、中間帯がひろがってどちらともいえないものたちが増えている。子供がいつまでたっても大人になれない。大人らしい大人もどんどん減っている。全員が「大人子供」のようなものである。責任を取るのが大人。子供は責任を取らなくても、子供だからといって許される。大人と子供の差はその一点にある。責任を取りたくないから家庭内に引っ込んだまま出てこない大人子供が少なくない。出なくても生きてゆくことはできる。そのまま年を取るが、いくらとっても子供であることに変わりはない。それはおかしい。そんなことが許されるはずはない。植物はもちろん、動物でも自分で自分が養えなくなったら生きてはいけない。本当は存在してはいけないものがたくさん存在している。ものごとにははっきり線を引いて分かりやすくしないと、分からない人がどんどん増えている。こんなことをいうと目くじらを立てる人がいるが、どうぞ立ててください。点や線には面積がないことから分かるように、人為的な仮想の物である。ものごとを考えたり進めたりして行く上で便利だから使われている。絵にかく場合のように実際にはない線を画いてしまう。もともと境界というものをハッキリさせるためにである。その点や線が現実にもなくなりつつある。
 
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